やりすぎだ。
捕鯨関係者だけでなく、ほとんどの国民が憤りを感じていたのではないだろうか。
シーシェパードと呼ばれる自然保護団体が、見るに堪えない攻撃をわが国調査捕鯨船に南氷洋で繰り返している光景が連日報道されている。
すでに彼らの行動は新聞等で大きく報じられているので、ご存知の方も多いと思うが、新聞が取り上げるはるか以前からこの問題には自民党水産部会長、ならびに捕鯨議員連盟という立場から深く関与してきた。
しかし捕鯨については誤解も多い。そこで、少し説明しておきたい。
まず第一の誤解は、捕鯨は国際的に認められていないのだから、自粛すべきではないかという誤解。
日本も入っている国際捕鯨委員会−IWCでは賛成国も反対国も入り混じって毎年、商業捕鯨の是非について検討されている。そして、商業捕鯨再開のためには参加国の三分の二の賛成が必要である。そして、現在の状況はというと、昨年は初めて捕鯨賛成国が過半数を超えるという均衡状態になっているということは案外知らない人も多い。
第二に、鯨はもう絶滅危惧種なのだから、取るべきではないのではないかという誤解。
そもそも捕鯨の可否については現在の鯨の生息数や何をどれだけ食べているかなどを調査しない限り議論はできない。確実にわかっていることは鯨がとんでもない大食いであることと鯨の数は確実に増えてきているということである。そのおかげで、かなり控えめにいっても、魚類の生息数に大きな影響を及ぼしていることは間違いなく、近海のいわしなどの小魚が減ってきたことの一因は鯨の大食いにあるいということがわかってきている。
そして、第三に、反捕鯨団体が言うように日本の調査捕鯨は商業捕鯨の隠れ蓑にしているという誤解。
確かに、調査捕鯨で調査が終わった肉は国内で流通して、鯨専門店などに下ろされるが、 そもそも定置網などにかかる鯨なども、近年頭数が増えているせいか多くなってきており、これらは調査捕鯨の対象とならないので、DNAの調査などの手続きを経た後、沿岸の 漁師などが普通の魚と同様に裁いている。
お分かりいただけると思う。日本の捕鯨はなんら違法などころか、IWCという国際会議の場できちんと議論され、承認されてきたものであり、生態系に影響のないように最新の注意を払って行われてきたのである。
なのに、である。薬剤の入ったビンを投げつけるは、艦船を体当たりさせるは、スクリューに網をかぶせるは、調査船に乗り込んでくるは、挙句にロンドンの大使館に不法侵入までしてくるのである。(すべてここ数年に実際にあった事例)
これらの行為が正当化される許されない罪を日本は犯しているのであろうか。 もし鯨がかわいそうジャン、なんていう向きがいたら、カンガルーを食べている国にこれらの行為をしてもいいということになる。
牛を殺している現場を見た人はこれを残酷と思わない人はいないだろう。
最後に日本の外務省に一言。IWCに加盟している意味は、捕鯨の実態を知ってもらうこと、日本の捕鯨文化を理解してもらうには時間がかかっても、国際社会への持続的な文化発信が必要であると考えたからである。
事実、その効果は現れており、先述したように、一昨年には捕鯨賛成国が初めて過半数を超えた。
しかし最近の状況を見ると、捕鯨賛成国が危機感を募らせた結果、アフリカの海のない内陸国にIWC参加を呼びかけて参加料、IWC代表団の渡航費を立て替えてまでも反対を維持させるというまるで、「お金にものを言わせて」という事態が続いている。
冒頭のシーシェパードがなぜこのような暴挙を繰り返すか、というと、この過激な行動がインターネットで報じられると自然保護団体から巨額の寄付金が集まるという構図になっているからであり、彼らも「金のため」という構図に成り下がっているのである。
このような事態をいつまでも放置するのか。なんらの手立てもなく、静観していることは国内の極端な右傾化を進めることになるおそれもある。事実、わが党内ではIWCなどもう脱退して独自に捕鯨を続けていくべきだという意見も多く出ている。もう静観することは許されないところまできているといえよう。アメリカバッファローを絶滅の危機に追い込んだ国に、カンガルーを食べる国に言われたくない、という国民感情の問題にしか過ぎないとするにはあまりにも問題を矮小化していると思う。


2008/03/25 和歌山新報「がんばってます」掲載






国会で代表質問の機会を得た。NHKで中継もされたが、平日の昼間だったので、わざわざテレビの前に座ってごらんになられる方は少ないだろう、と思っていた。しかし存外の多くの方にねぎらいやら励ましの言葉をいただいた。この稿を借りて厚く御礼を申し上げる次第である。
ごらんになられた方はわかると思うが、代表質問は各党から衆参の二人ないし一人が行うきまりで、予算委員会とはまた異なる雰囲気である。第一に全議員の前で行うこと、第二に総理以下全閣僚の立会いのもと行われるものであること、そしていかめしい本会議場であること。
私はこれまでにも保守党時代に一度経験したことはあったので、それほどの気負いはなかったつもりだが、これらの雰囲気と総選挙が噂されるこの時期の質問はそう経験できるものではない。そもそも質問の機会すら得ずに議員人生を全うしてしまう人が大半なのだ。私にしては珍しく早い時期から準備に取り掛かることにした。しかし結局、(これは私の仕業ではないが)直前三日でやる羽目に。まず困ったのは20分という時間から制約されるテーマの絞込みである。
まず、代表質問はもう一人の主質問者である尾辻参議院自民党議員会長が(当然のことだが)、優先されるため、会長の質問事項がはっきりするまでは何もできない。厚生労働委員長経験者として、当然その方面にも一言、なんて考えていても、尾辻さんは厚生労働大臣経験者。うわあ。やめとこ。勇気ある撤退、となる。
その上日々国民の関心事が変わるのである。今なら、「ギョーザ」ははずせない話題だろうが、直前に捕鯨反対の団体が日本船に傍若無人の振る舞いを行う事件が飛び込んできた。農林水産関係の原稿を用意していたのだが、捕鯨を取り扱うことに。
日本ハンドボール協会の副会長として思い入れのあるハンド界が「中東の笛」によって苦しめられている。これは何とかしてやれないものか(結局負けたが)。
サブプライムローン問題を取り上げるべきか否か。直前まで悩んだが、日本は大丈夫だと信じて、今は右往左往していたずらに不安をあおるべきではないと判断したのは前日の深夜。
他にも、党の人権問題調査会の事務局長として、大激論になるであろう人権問題を取り上げることについては躊躇もあったが、多くの方からのアドバイスもあり、決断させていただいた。
もちろん国土交通委員会の筆頭理事として、道路問題やわが県を中心とする地方のありようについて聞くことは譲れない。得意の分野だし。
とにかく、何を捨て何をとりあげるかについてはかなり苦労した。そこへ最後のパンチ。福田総理がダボス会議に出席する。そこで環境問題を取り上げるのだから、尾辻さん、質問に入れるべきですよ。と周辺の要望。会長はにこやかに、「それではツルホさんにお願いしましょう。」ええっ?もう原稿は持ち時間ぎりぎりのところまで固まっているのにぃ。まあ舞台裏はこんな調子である。とにかくブラウン管(いまどきはプラズマか?)でお目にかかれた方には失礼だが、質問自体はあまりよいできだとは思っていなかった。そもそも総理の返答に注目すべきものがなかったのだから。(失礼)
でも思いのほか県内外から多くの反響があった。それは何よりふるさとの政治に対する期待の裏返しであった。地方が、日本がいかにあるべきか。道路問題を通じて、過疎の問題を通じて、皆さんとの交流を通じて現在の政治に何がかけているかがはっきり見えつつある。ねじれ国会のもと、私が今おかれている立場は確実に変化している。しかし、立っている位置は少しも変わっていない。いやかわってはならないと思わせてくださった。連絡をいただいた皆さん(右翼のお兄さんの電話もあったが)ありがとう。また初心に戻ってがんばることを決意した一幕である。


2008/02/05 和歌山新報「がんばってます」掲載






新年明けましておめでとうございます。
昨年の世相は相変わらずどちらかといえば凄惨な事件が多かったように思いますが、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。
今、わが国の価値観が揺らいでいます。幸福を約束したはずの進歩は環境問題を引き起こしています。
強固に安定していたはずの欧米中心の世界は中東問題の欺瞞を発端としてテロの脅威にさらされています。
これに伴い、信頼していたはずのアメリカ的効率重視の価値観が、インドや中国の台頭とともに、アジア的思考の中で再検討されようとしています。
先日訪れた中国のある要人の中には、なぜ日本は中国ではなくアメリカとの関係をそれほどまでに重視するのかわからない、とまではっきりと言い出す人までいました。このことの当不当はともかく、経済的豊かさを維持するために何を捨て何を志向すべきか。われわれは今こそ過去に反省し、未来に改革していく必要があるでしょう。景気対策にむやみやたらと公共事業を打つ時代ではなくなりましたが、ふるさとが放置されてよいはずはありません。個人の主張はふうじられてはなりませんが、公に奉じることの価値をみなおす必要はないでしょうか。家族制度に縛られた社会は確かに窮屈でしたが、凄惨な事件の起こる背景に家や教育のあり方にみなおしが求められています。
昨年、京都大学の研究チームが臓器を再生する万能細胞の発表が話題を呼んでいましたが、科学技術の発展に限らず、人間はいつの時代も英知がさまざまな困難を乗り越えてきたのです。
常にアンテナを高く、グローバルに持って、あきらめず努力し続ける、そんな一年にしたいと思います。皆さんのますますのご健勝をお祈りいたします。



平成20年1月
参議院議員  鶴保庸介






田辺までの高速道路が開通した。開通式の日には出席した多くの関係者とともに喜びをともにしたが、私はそのときもうひとつの「道」に思いをはせてもいた。それはその直前に「完成」した紀ノ川のサイクリングロードである。といってもまだサイクリングロードと呼べる代物になっているのか実は私自身もまだ見たこともなく、この稿で紹介するのはおかしいのかも知れない。しかし、田辺までの高速道路開通の同じ日に、全国から集まったサイクリストが和歌山県で全国大会を開いてくれていたのである。関係者の努力に対して敬意を表したい一心で紹介したい。
実は私は和歌山県のサイクリング協会の副会長を勤めさせていただいている。特に自転車が好きで好きでたまらないという「サイクリング野郎」というのでもなければ、プライベートの時間そのものがあまりないため、自転車に乗る機会もほとんどない。そんな私が協会のご好意をいただいているのは、協会の皆さんとある「夢」を共有しているからであると思っている。それは和歌山の河川敷の美化、整備である。
さかのぼること四年ほど。国土交通省の大臣政務官を勤めさせていただいたころにある町からの陳情があった。「河川敷に桜を植えたい」というものである。その町の河川敷には以前から町民の親しむ公園が広がっているが、その公園をもっと魅力あるものにしたいというのである。しかもその桜の費用はほとんど町が持つということ。国の財布をそれほど傷つけることもないのだからと二つ返事で快諾してしまった。しかし、国土交通省の答えはノー。河川堤防内の開発、特に植樹などはやがて根が張って堤防を傷つける恐れがあるという理由である。ちょっと待ってくれ、長い間の放置のために河川中央には大きな樹木が茂っているではないか。堤防の安全というならこの木も切らなきゃと食い下がると、この茂みが自然保護の観点から大切なんだという。見ると公園を訪れる人々の出すごみなどがその茂みに引っかかって却って汚らしい。これも自然か、と問うと、そうだと譲らない。そのときはそれで河川の浚渫をさせ、桜は結局あきらめざるを得なかった。
「ならば、夜中に桜の苗木を勝手に植えてやれ。それも自然。伐採はできまい」と当時のその町長さんと憎まれ口をたたきあったことを覚えているが、堤の安全を守らねばならない役所の気持ちはわかるが、堤防の安全にかかわらない程度の開発についてはもう少し柔軟に対応すればよいのではないか、とそのころから、紀ノ川の河川堤防を車で通るたび、生い茂った河川の様子を見て思ったものである。
そんなおり、ひょんなきっかけで県のサイクリング協会から県内の大会を開くのに和歌山市内の工事用堤防道路を一時的に走らせてほしいという陳情を受けることになった。河川堤防という難しい論理に辟易していた当時、一瞬たじろいだが、これまた誰かが得をしたり損をしたりする話ではない。県内にある国土交通省の出先機関に掛け合った結果は、了解とのことでめでたくその工事用道路を開放してもらい、走ることができた。そのときである。サイクリング協会が主催している市民の大会だということで家族連れの方などが思い思いの自転車で参加されていたのだが、生き生きとその一日を楽しんでくれていたその光景を目にしたのは。よく晴れた秋のことであったが、「こうして安全な自転車用道路を県内に作ることができたら」いいのに。そしてそれが「堤防内に作ることができたら、河川の美化にもつながる。将来はその親水地に親子連れがバーベキューに来てくれるような町になってくれればもっともっと流域は活性化するのでは」とサイクリング協会の皆さんと喜びとともに語り合った。
はじめは思いつきで、という程度だったが、国交省の県内出先機関にしつこくかけあっているうち、その幹部職員にサイクリングに理解ある人がいて、サイクリングロードにかける費用などほとんどないから、協会の人に試走でもしていただいてボランティアで路線図を描いてみよということになって、協力をお願いした。昨年のはじめごろだったと思う。当時、全国大会が開かれるその翌年に向かって関係者が奔走しているときであったから、くだらない計画につき合わせたのでは申し訳ないの一言ではあったが、結果として和歌山だけでなく、紀ノ川市内の議会議員の方々の強力な支援もあって、とにかくサイクリングロードを、ということになっていった。
私は緻密な計画があってサイクリングロードを計画したのではない。しかし、想像してみてほしい。ごみと不法繋留のプレジャーボートの天国になっているあれだけの土地が美しくよみがえった姿を。県内には山と海があるが、川、というもうひとつの財産を忘れていないか。内水面漁業者などとの調整は必要であるが、肝心の街づくりがおろそかになって川そのものが汚れてしまっている地区も存在する。2015年には国民体育大会が和歌山県で開かれるがその運動場確保に県も頭を痛めているという。「今しかない」。そう直感したのは今でも間違いはなかったと思っている。
ひとつのことに批判は覚悟である。しかし何かを動かしていかねば現状を守ることもできない。自然保護を訴える人、漁業者、行政。さまざまな人からさまざまな意見をいただいてきたし、これからもいただくことになろうと思う。しかし、そんな中、大いに議論をしたい。魅力ある和歌山をどうつくるのかについて。


2007/11/27 和歌山新報「がんばってます」掲載






福田内閣が発足し、谷垣 政調会長の補佐という仕事をさせていただくことになった。私はこれまで猟官運動をしたことがないから、今回も淡々とお受けするのみ、と心を決めてはいたものの、初めての部署なので予測がつかない。そこで過去に担当したことのある先輩議員に聞いてみた。「少しゆっくりできるかな」という感触であった。これまで道路公団民営化時代の国土交通大臣政務官、復活水産部会の初代部会長、社会保険庁問題吹き荒れる厚生労働委員長、とありがたいことに(?)なにがしかの問題がある部署ばかりを歴任させていただいたので、さびしくはあったが、ほっとした心持。しかし、やはりこの世界は甘くはない。そもそも、野党が第一党になってしまった参議院において、「法案の嵐作戦」と民主党がいきまいているのに、政策担当の本丸にいてのんびりしていられるはずはないのである。
まずは地方への政策説明会。民主党案とどう違うのか、与党案の含みはどこにあるのかを直接国民との対話しようということで、各都道府県に出向いて意見交換会を始めている。
また実は私の担当は正式には党の政調会長補佐以外に参議院政策審議会副会長、参議院政策審議会国会対策担当、党法案対策プロジェクトチーム担当、党法案対策作業部会担当、と余計な(失礼)ものまでたくさんの肩書きがついているのである。特に後者二者の肩書きはこのたびの参議院での与野党逆転を受けて、新たに設けられた役職であり、民主党提出法案をわが党としてどのように取り扱うかを決めることになっている。場合によっては民主党の法案担当者を呼んで内容について聞く。これらの会議はほぼ毎日のようにやってくる上に、今まで経験したことのない事態のため、次から次へと会議のルーティンが変わる。私自身もいくつかの議員立法を手がけていたが、これではおよそ余裕はなく、また、議員立法を与党から出そうなんてとても許される雰囲気ではない。
しかしよく考えてみると、この状態は政界再編がない限り、あと少なくとも次の参議院選挙までの三年間は続くのであって、この状態における国会運営に慣れていかなければならない。
政治家が真剣に政策を議論し、いかにして国民のためになる政策を提示できるかがまさに問われる時代になったとも言えるであろう。
この意味では「面白くなってきた」というのが最近の感想である。
たとえば、これまでは民主党案が出てもほとんどの場合国会審議の表舞台に出ることはなく、その内容まで目を通すことなどなかった。中には提出していた事実さえ知らなかったというケースさえある。民主党のほうも公式には否定するだろうが、公開の審議に耐えうる緻密な内容の法案であったかどうかははなはだ疑問というものも多い。しかしこれからはそうは行かない。財政状況を踏まえ、党として他の政策との整合性のとれたものでなければならない。場当たり的、一時的人気取り政策の羅列ではとても責任政党とはいえない時代がやってくるのである。テロ特別措置法のほかに被災者生活再建支援法、農業者所得補償法案、年金流用禁止法などいよいよ国民の目に触れる論戦が開始される。その論戦の指揮官たる「政調」にあって、大いに議員としての「成長」を図りたいと思う。


2007/10/16 和歌山新報「がんばってます」掲載






医師不足と新直轄道路

選挙が終わりました。
県内の選挙では私が選挙対策本部長をつとめた自民党候補者に多くのご支援をいただきました。改めて感謝を申し上げたいと思います。ただ、全国的な選挙の結果はご存知のとおりで、史上初の野党議長が参議院で誕生するなど、参議院の景色は大きく変わりました。私も本会議場ではなんと真後ろに議長が座っているではありませんか。いつの間にか私は後ろから二番目の列に座ることになっているのです。皮肉な出世です。厚生労働委員会も野党が過半数を保持しているため、委員長から向かって右側が与党席から野党席になってしまいました。また、委員会そのものも野党の皆さんには大変な人気だそうで、定員の約三倍の希望者が殺到しているそうです。「花形委員会」です。そしてこのことから類推すると委員長のポストも来る臨時国会では野党が希望する公算が大きくなっています。そのため、残り少ない厚生労働委員長としての期間を県内外の問題に早急に取り組んでいかなければならないと思っています。
そのうちのひとつに県内の医師不足問題がありました。ご存知のとおり、県内の医師数は決して全国平均から見て少なくはないのですが、その七割近くが和歌山市内に偏在しており、典型的な医療過疎を招いています。また、地域医療を支える拠点病院の勤務医の数は臨床研修医制度などのおかげで年々減り続け、このままでは医療の崩壊を招きかねない状態なのです。
そこでその原因である臨床研修制度の見直しと、地域医療を支える医師の育成を、とこの稿でも申し上げてまいりました。(委員長就任のころの稿だったと思います)すでに新聞等で報道のとおり、この二つは確実に是正されつつあります。前者については研修医が都会の大病院に集合する事態は認めざるを得ないにしても、そこから地方への医師派遣を積極的に行っているかどうかでこれらのマグネットホスピタルに対する補助金を勘案することにしました。後者については、人口比率、または医療費率から計算すると全国の医師は決して少なくない現状で「地域医療を支える」医師だけを増やすことには財務省、官邸までもがかなり抵抗していました。しかし、特別枠として医大入学者定員の増加(現在のところ約20名)を認めさせることになったのです。これには県立医大や仁坂知事の全面的なバックアップがあったことを忘れてはなりません。また勤務医の待遇改善策や医療過疎で悩む地域に対する緊急医師派遣制度も創設されます。
来年度からということですが、これらが実現すれば、社会保険庁問題で苦労の連続であった委員長職でしたが、県民への約束は一部果たせたと思っています。
もうひとつの報告は分野が違いますが、新直轄道路建設です。県内の新直轄道路建設にはこれまで地方交付税として建設費の約7%の補助がなされていましたが、これは実は総務省の「さじ加減」でありました。もちろんその裏側には複雑な計算式があり、それなりに根拠はあるのですが、都道府県ごとにこの補助率にかなりばらつきがあること、および、これらの「役所の複雑な計算式」なるものは往々にして現場の実態と遊離しているものであることなどから、かねてよりこの比率をあげるべく水面下で努力をしてきたのです。結果、和歌山県は他の「ある県」とともに地方負担ゼロ。これにより県は年間十数億、10年間で100億以上のお金が「浮く」事になってくれるはずです。
いずれにせよ、地方にとって、今しばらくは冬の時代かも知れません。必ずわれわれの時代が来ることを信じて、いやこさせて見せる。そういう気概をもってこれからも努力していきたいと思います。


2007/08/14 和歌山新報「がんばってます」掲載






恐れていた事態が起こった。
一昨日の衆議院厚生労働委員会にて、社会保険庁の改正案に強行採決。委員長は案の定、多少手荒な真似をされて閉口していたらしい。(「救急車で運ばれた」なんていうデマ?も流れた)早速、衆議院議員の仲間から電話が来て、「次は参議院厚生労働委員長が血祭りに挙げられるらしい」と聞かされ。へえ。と聞き流してから気づいた。参議院の委員長は俺だったよな。
それにしても厚生労働委員会は何度もこの稿で申し上げてきたとおり、少々いろんなことが起きすぎの感がある。国民の関心が高いことはわかるが、なにも社会保険庁の改革法案を審議している最中に年金の記録紛失事件なんて起こさなくてもいいじゃない。
ここまでくると、社会保険庁を弁護することはできなくなる。(といっても郵政より社会保険庁が先だと叫んで小泉首相ににらまれた私には弁護するつもりなど毛頭ないが。)みのもんたじゃないが、あきれ返るばかりである。おかげで明日からの参議院厚生労働委員会もおそらく波高くして野党のセンセイからは大変な突き上げをいただくことになりそうである。
しかしこれまでの参議院厚生労働委員会は「誠実な」委員長のもと、実に人間味あふれる円満な運営(?)を行ってきた。その間、パート労働者法改正、社会福祉士法改正、ドクターヘリ法案などそれなりに順調にこなしてきたはずである。特にドクターヘリ法案は和歌山発の法案といってもよい。すなわち、和歌山県では多くの署名活動などを通じて全国に先駆けて導入が決まった、救命救急ヘリコプターをよそでもやっていきますという法案で、これらが決まったときはとてもいい雰囲気で、事情を知っている一部の野党のかたがたからも飲み会をしてやろうという雰囲気ですらあった。
それからも、すべての法案にできるだけ十分な審議時間確保をということで、平日のほとんどは火曜日と木曜日の定例日以外の日程も返上しての委員会ずくめ。
一回の委員会の審議は大体拘束時間ベースで九時間ぐらいなので少々お疲れさんというぐらい。(もちろん残業はでませんが)今回のことがこじれたら、怠け者の国会議員にちょうど休むいい口実を与えたことになるのです。わかっていますかね社会保険庁さん。
ともかく、明日からは会期末に向けて社会保険庁以外にも労働関係三法の改正など重要法案が目白押しである。国会は来月22日までの一月しかないうえ、後に控える参議院選挙をにらんで激闘、ではなく激論が繰り広げられることになりそうである。最後に円満に終われるかどうか、などと先を憂いていても仕方ない。体力をつけるために、きょうは早く寝ます。


2007/05/29 和歌山新報「がんばってます」掲載






歯科医師会がいよいよ再始動である。世間を騒がせた不祥事以来、ややもすると歯科診療に関する歯科医師会の主張には気迫が感じられなかったところであるが、最近になって、党内でもプロジェクトチームを立ち上げ、その幹事の一人となった私も頻繁に会合を持つようになっている。
ご存知の方もいると思うが、歯というのは食べられる喜び、話せる喜びの原点であると同時に、口腔内疾患の治療が健康維持にもっとも重要であるという研究がだんだんと進んでいる。しかしながら、70歳以降の後期高齢者と呼ばれるお年寄りが歯医者さんに通って歯を治している光景はこれまでのところ一般的であるとはいえない。
自分の寿命を勘案すると、歯を治すのは「後回し」にしようというのである。
しかし、厚生労働省は以前から健康寿命という考え方を浸透させようと努力してきた。
死ぬまで元気でバリバリと。自らの足で棺おけに入ろう。などと称して、活動的に生きていることこそ重要で単なる延命が個人の幸せにつながるものではないという考え方である。
医療費削減の問題と重なって、この考え方はいまやすべての厚生行政に通じる考え方になっているが、その考え方にたつとまさにこの歯科医療の現状は憂慮すべきものであるといわざるを得ない。
ひとつの写真がある。これまで入れ歯すら入れることなく硬いものはほとんど口にせず、十数年を過ごしてきたお年寄りに、歯科のチームが本人の同意を得て差し歯を作った。
長い間歯のない生活をすごしてきたそのお年よりにあう歯を施療することはとても苦労したらしいが、施療前と施療後では明らかに表情が違うのである。
明るくなったと断言してもいい。
人前で笑う、話す、食べるすべてにおいて積極的になっている。
歯科の診療にとって必要なのはこのような実態のアピールである。
歯科診療はこれまでのところ診療報酬の改定のたびに医療費削減の風の中、苦しい結果を迫られてきたが、口腔ケアが全身の健康維持のために必要なことを考えると、予防医療としての役割を堅持できるような最低限の施策は必要であろう。
たとえば、出張診療や介護保険を使った高齢者に対する口腔ケアなどである。

ぽっくりと死ねたらいいな、今日じゃなく。
という川柳があるが、みな国民の望んでいることは同じではなかろうか。
政治の政策誘導が必要な分野である。


2007/03/27 和歌山新報「がんばってます」掲載






厚生労働大臣の発言が波紋を呼んでいる。女性は子供を生む機械?そんなことあるわけない。しかし、最先端の不妊治療を経験したものとして発言に対する批判の大合唱になんとなく違和感を感じるのである。
経験した人ならわかると思うが、一般的に男性は不妊治療に疎外感を感じている。そこでの男性の役割は配偶者にたいする優しさとか、思いやりとかより、はっきり言って「精子製造機」である。まさに最先端の医学は職人技であり、医師という職人に命の誕生を預けているという意味では仕方のないことなのかも知れないが、情けないやらなんやらで涙することも多い。男性がそうだから女性もというわけではないが、不妊治療の現場は多くの国民が想像するよりはるかに機械的だ。
もっと言うと、(ここからはべらんめえちょうになるが)厚生の分野にはあまりに非人間的だ、機械的だと叫びたくなるようなことが多い。
最近の看護師不足に悩む病院。有名な七対一。ベッド数七床に対して一人の看護師がいれば保険点数を加算するというやつであるが、看護師の確保がままならない。何で七床なの?患者さんで満室になっていない病院でも看護師がいれば同じように加算するの?日本のベッド数は多いから減らそうというのが本当の狙いだというが、それならほかにもベッド数の不必要に多い病院に何らかのペナルティを課すとかほかの方法もあるだろうに。命にかかわる問題なのだから機械的に数字をあてはめてはならない。
命にかかわるといえば地方の医師不足も深刻だ。大学医学部を卒業して臨床研修に携わる多くの医師が、症例が多くよりよい指導医のいる病院で修行をしたいと思うのも無理はない。しかし、そのおかげで、高齢化が進んで、立地条件の悪い地方の病院では医者不足が深刻である。特に県立の医科大学がひとつしかないわが和歌山県では全医師数の半分以上が和歌山市内に集中している。過疎地の医師の不足は慢性的になっていて、若い研修医すら確保がおぼつかない。そこで機械的にベッド数に応じて医師を割り当てることも検討され始めているが、私は反対だ。医療には人と人の間をつなぐアナログの何かが必要である。信頼がなければ医療はなりたたない。強制的につれてこられた医師の立場に立ってみても、それは不幸である。
私は、@地域医療を担うことを前提に大学の入学を許す枠を増やすこと。A研修医の指導プログラムを充実させ、研修医が多くの経験を積めるシステム作りをすること。
B同じような悩みを抱えた府県間同士で連携をとること。Cこれまで地域医療を担ってきた診療所などとの連携を深めて、時には開業医に病院の医師として勤めてもらうなどの協力体制を組むこと などを提言してきた。
Aについてはわが県立医大は臨床研修医制度のスタート時から力を入れてきており、これからの結果に期待したい。@は大変に重要な問題で、学生の中にはふるさとに生まれ育ってふるさとに貢献したいと思っている人はいくらでもいるはずであるし、県民の税金を使って医師になっているのだから、県民に貢献して当たり前ぐらいの気持ちで望まないといけないと思う。文部科学省はじめ、関係省庁と連日のすり合わせをしているところである。
Bについては医師の現場を知っているものなら多少は興味を引くはずだ。治療方法というのは実はいくらでもあり、そのやり方は教えてもらう指導医によっても大きく異なるケースがあるといわれる。もっというと、出身大学や出身地によって違うことが多く、他流試合をしてみたいというのはやる気のある医師にはみな共通の思いである。いいことも悪いことも含めて「交換留学」をすることは、医師個人にとってはとても有意義なことであるし、同じ悩みを抱えている府県間同士で医師不足を引きおこすことなく立派な医師を育てることができるのではないか。
Cについてはもちろん開業医の側からの反発が予想される。しかし、地域医療の原点はその地方に住む人がいてこそ成り立つのであり、地域拠点医療がぐらつくとそもそもその社会は崩壊する危険がある。その視点に立てば地域の医師会も多くの方が協力してくれるのではないか。
どの方策をとっても批判は覚悟の上。現状を憂うる同志の意見を広く請いたい。厚生労働委員長になって生活に密着した行政への要望を聞くたび、機械的でない政治の難しさを思う。


2007/02/06 和歌山新報「がんばってます」掲載






「今から体を鍛えておけよ」と同僚議員から皮肉が飛ぶ。いよいよ始まった第165国会本会議場。議長が私の名を厚生労働委員長として指名したときのことだ。
確かにそのとおり。厚生労働委員会は、与野党対立の委員会で、過去数次にわたり連続して強行採決や乱闘騒ぎで、国会を賑わしてきた委員会である。過去の委員長の中には眼鏡を割られた者もいれば、骨折したものまでいるという。冒頭のやじは、こうした事情を皮肉ったものである。
そもそも強行採決とは、政府与党が出した法案に対し野党が、採決をさせないために、審議の打ち切りを宣言する委員長の権限を阻止しようとすることから起こるものであるが、これらの背景には少し考察しておかなければならないことがある。
まず第一に、世の中の価値観が多様化して、だんだんと、一つの選択をすることの是非が難しくなっている、ということである。
たとえば、来年の通常国会にはおそらく本格的な審議が行われることになるであろう臓器移植法案。
臓器の移植は遺族の意思を尊重するべきか、本人の意思を尊重すべきか。なんてそもそも政治がきめるべきことではないはずである。しかし、一定のルールを決めなければ臓器売買の横行など移植手術の現場に大変な混乱をきたすことにもなりかねない。おそらくこの法案も大いに「もめる」ことだろう。
第二には厚生労働行政は、国民生活におおいに密着しているということである。
道路特定財源の一般財源化の問題を100人に聞いたらおそらく賛成や反対の自分の意見を言える者は半分もないのではないか。いや問題になっていることすら知らない国民も多いはずである。しかし年金は違う。10円の負担増加であっても大きく報じられるし、議員会館の事務所は陳情のお手紙でうずもれる羽目になる。
社会保険庁の見直しや、障害者自立支援法の中間報告。労働基準法の改正など、私の委員長在籍中に行われるであろう審議は例に漏れず活発な議論をしていただけそうなものばかり。その中で私なりに立てている問題意識−外国人労働者の受け入れ法制の制定や医療過疎の解消―もできれば道筋をつけていきたい。
以前にもまして歴史的洞察と、国民の理解が、必要となる。さてさて大変な委員会をまかされたという責任の重さを痛感しつつ、腕立て伏せと腹筋運動を欠かさない毎日である。読者諸氏のご協力、ご鞭撻をお願いしたい。


2006/10/17 和歌山新報「がんばってます」掲載






ようやく和歌山県でミーティングを開くことができた。
以前、この稿でも申し上げたが、昨年、私は自民党水産部会長として党の水産政策の取りまとめ役をおおせつかった。(事実は周りに迷惑のかけどおしであったが)その際、現場を知らずして政策もなにもない、もっと積極的にこちらから出向いていこうということではじめた地方の漁業者との意見交換会。称してフィッシャリーミーティングを、いよいよ念願の和歌山県で行われることになったのである。
水産政策を専門とする国会議員が集まって各地方で現場の意見を吸い上げようと行っている会合である。今回はすさみ漁協、有田市箕島漁協のみの会合であったが、さすがに周辺の大勢の漁協の組合長にお集まりをいただき、大変有意義な会合ができたと感謝している。
過去に千葉や富山、長崎などでおこなわれてきていて、窮状をうったえる大陳情会と化するケースも多かったが、そこは関係のご協力。ただ、「密漁者が多くて困っている。もっと国に何とかしてほしい」という問題提起がなされたときなどは、水産庁が「それは県がやる仕事だ」と釘を指していたのは少々しらけ気味であった。漁協は国に。国は県に。責任の取り合いをするぐらいでもいい加減なのに、責任のなすりつけあいとは何たることか。「渇!」と大沢親分におでまし願いたいところだが、誰に渇を入れてもかわらない。こうしているうちにも泣いているのは漁業者だと思うと冗談を言っている場合ではない。漁業改革はこの辺から始めなければならないなら、まだまだ道険しいといわざるを得ないようだ。いずれにしても、燃油の高騰と魚価安。海に勇んで出て行っても家族も養えないでいる窮乏がそこにはある。
この稿になんども書いたが今日の水産の現場はカラオケおじさんがうたうような海の男の勇壮な雰囲気はない。
ではどうするか。私はそろそろ水産の現場もコペルニクス的発想の転回が必要なのではないかと思っている。
最近の中国の台頭。かの国の水揚げ高は世界のダントツの一位である。私は水産王国日本の漁業が一番だと習った(記憶違い?)のに、ことは目まぐるしく変わっている。
ここでいくつか提言。
漁業者はもはや魚を取るだけでは生きてはいけない。取った魚をいかにして高く売るか。品質を落としたり、値段を上げたりしたら消費者から見放される。漁の時期をずらしたり、効率を上げたり、時には適量を管理しながら漁獲したりして流通全体に目を光らせる経営感覚が必要なのである。
あと数十年もすれば世界の食料危機がやってくるといわれる時代に貴重な蛋白源である水産資源を効率的に利用していく体力をつけておくことが何より肝要なのである。水産先進国のノルウェーは日本の漁獲量なら今の十分の一の漁船で漁獲が可能であると豪語したそうだが、日本の漁業はまだまだ非効率であるといわれているのである。また漁業権をはじめとする既得権を根本から見直す時期に来ていると思う。こういうと誤解を生むかもしれないが、海の上で生業をしているということは周辺の漁村の皆さんでなければしてはいけないものではない。海の産物は等しく日本国民全体の財産であり、それを効率よく利用できるなら現在の漁業者、漁協のみが特権的に許されていいものではない。そろそろやる気のある漁業者の新規参入があってもいいと思う。その意味では徹底的な海産物の物流の改革と漁業者の健全な競争が必要なのである。
以上、漁業者に耳痛いことばかり、思いつくままに並べてみたが、ほんとはわれわれも努力しなければならないことがある。それはみんなが「魚を食べる」こと。水産王国和歌山の復活、「海の男」の復活は一日にしては成らないのである。


2006/05/24 和歌山新報「がんばってます」掲載






寒中見舞いに書いたとおりライブドアの事件はやはりとんでもないものであった。永田議員のおかげでうやむやになっているが、政治がモラル欠如の人を経済的に成功したという理由だけで持ち上げたことの罪はどうなったのか。小泉首相はすかさず「がせねた」といった。自民党はこの総理の一言で勇気付けられた。総理は何か知っているに違いない。(でなければここまで断言はできないと。)でも、だとすればなぜ総理はこの人物に間違いがないかの確認ぐらいしてくれなかったのか。検察は昨年の選挙のはるか以前から堀江容疑者に目を付けていたという状況だったというのだから。
候補者の確認作業を怠っていては、お話にも何にもならない。
「改革の先にあるもの」がなんなのか。痛みに耐えよというならなんのために、どのような痛みに耐えねばならないかがていねいに説明できねばならない。政権政党として戦後50年間のほとんどの政治を切り盛りしてきた自民党に言い訳は許されない。いままでの政治では何が悪くてどの部分を改革せねばならないかを説明する責任があると思う。
私は之までの日本が決して悪い政治をおこなってきたとは思わない。
社会的格差を比較的生まずに驚くべき発展を成し遂げてきた。しかし、そのおかげで努力せずとも生きていける、なんとなく族が出てきた。何のために生きているのか、などと自分探しの迷路に落ち込んで命を落とすものも先進国中最も多い。一方、少子高齢化が進み、国の財政は最悪の事態。現在の国の借金は30年どころか50年100年ローンという事態である。改革をしようにも、すべてがバランスよく調和されていて既得権を持った人たちの抵抗にあってきた。ざっとこんなところであろう。
しかし、もし、借金の返済のためだけに改革をしているのであれば、宴の後、みんなでおかゆを食べなきゃということのメッセージがなければならないが、そんなことは口が避けてもいえない。宴を実感した人は少なかったからである。
私はそこに問題があるのだと思う。
政治が本来考えるべきことは一人ひとりの幸せとは何かという理念から始めるべきものではないのか。
貧しくても本当の豊かさとは何か。政治ができることはその最小限度のルール作りである。
一人ひとりが夢を持ち、それを手に入れることのできるように、安心のできる社会を作ることは正しいのである。
地方分権は正しいのである。
敗者復活のできる社会作りは正しいのである。
事後規制の社会は正しいのである。
ルールはずれを少なくし、他人の価値観を共有できる教育制度の改革は正しいのである。
しかし、それらは国の財政を守るためではない。
市場原理主義的社会を作るためではない。
小さな政府を作るためではない。
官から民への流れをつくるためではないのである。
これらは目的を達成するために出てきた副作用であって、このことを勘違いしては本末顛倒なのではなかろうか

当選以来同じことを述べてきたつもりであるが、まだまだ力不足。皆さんの倍旧のご援助を願うしだいである。


2006/04/04 和歌山新報「がんばってます」掲載






新年早々ライブドアショックで波乱含みの年明けです。
特に昨今、痛ましい事件が連続して起こっていますが、以前は都会に特有のものであるといわれてきました。
自然あふれる地方に健やかに育った子弟に精神が病むことはありえない、などという迷信は過去のものになりつつあります。
人材の都市偏在、それに伴う「あきらめ」が経済の停滞を生み、ますます人口、人材の偏在が進む、という負のスパイラルにおちいっているように思われます。
「地方が狂えば日本は無傷でいられない」とは月並みですが、まさにこのことが現実のものに、しかもきわめて深刻な「内面からの崩壊」が始まったといえば大げさでしょうか。
しかるに現状の政治ができることは限られています。
高齢者、外国人雇用、少子化など、国、地方が共有する問題もありますが、地方再生の為にはこれらへの対策だけで十分ではありません。
そろそろ東京圏域の開発ゾーン抑制、人口流入制限をしなければならないかもしれません。大胆な地方分権、道州制に類されるほどの"主権"を付与するぐらいの改革をしないとこの国の地方と都市の問題は永遠に解決しないでしょう。
多様な価値観が混在する今、大きな"国"が画一的に"統治"していくことには無理があります。地方がきめ細かなサービスを独自の責任において行使できる方法をとっていくため、これこそがぜひともやらねばならない"改革の本丸"です。
目標が定まったら、一歩を踏み出すことが大切です。
ニート問題に擬せられるように、社会全体が、「自分探しのわな」に陥って、何とか「勝ち組」になる為に100も理屈を並べているように思います。その意味では理屈抜きに一歩を踏み出そうとした小泉改革は評価されました。(余りに目標がなさすぎますが)
そもそも理屈を並べること自体が意味をなさない時代なのです。混迷の時代−かつてない少子高齢化、それによる労働力不足(?)、地球温暖化、各国のナショナリズムの進行、などの時代背景の中で、誰がしっかりした未来を予測することができましょうか。
「こうすれば、ああなる。」中短期のしっかりした計画は必要ですが、30年、50年先のことなど誰も予測できないのです。その前で躊躇することなどあってはなりません。
混迷ここに極まれりといった態の政治。仁義なき戦いの場に身を置く私にとっても自戒をこめて、王道をいく一年にしたいと思っております。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。



平成18年1月23日
参議院議員  鶴保庸介






「ああ神様、俺は何様ですか?」とはウルフルズの歌である。
最近は役所のかたがたと衝突することが多い。構造変化が進み、"コペルニクス的"発想の転換が求められる時代にあって先例主義や安定主義を原則とする「お役所」とは根本的に決別をしていかなければならないから、当然といえば当然の帰結ではある。しかし役所の職員一人ひとりはとても優秀な上、私ども国会議員と対峙するクラスの職員ともなると個人的には一回りも二まわりも歳の差があるのがつねであるから、このかたがたにこれをせい、あれをせいというのは大変なプレッシャーを感じることになる。
しかしあえて言わねばならない。漁業経営体質強化緊急総合対策基金もこうしたプレッシャーを乗り越えて創設することになった代物である。
漁業経営体質強化緊急総合対策基金は、有名な大型くらげの来遊や、燃油の歴史的な高騰によって、壊滅的な打撃を受けている漁業者を救うための緊急予算措置のことである。
(少し詳述すると、このたび補正予算により、51億円で策定されることとなりました。おおむね大型クラゲ対策が15億円。燃油流通効率化対策が10億円。協業化による省エネ対策が25億円となっています。あわせて、平成17年度予算で出ておりました燃油対策および経営体質強化対策が、使い勝手が悪いとの指摘を受けて、条件改善をされることなりました。でこの総予算は49億円ほどになります。都合、補正の分と合わせて約100億円の対策となる予定です。
勘の鋭い読者はお気づきだと思うが、之はもうゴリゴリの俗的予算措置。おそらく今流行の市場主義全能主義者が聞いたら卒倒しそうな伝家の宝刀である。
ではなぜ、バリバリの改革派(自称)である小生が之を強く推し進めてきたか。
以前この稿でもお話したとおり、漁業を取り巻く環境は厳しいなんて生易しいものではない。県内平均年収はなんと200万円を切っているという状況であった。そこへ燃油の高騰と大型くらげ。和歌山では今のところまだそれほどくらげによる被害は出ていないが、中国、東シナ海から来遊するくらげの数は年を追う毎に増えており、房総沖にまで来遊が確認されるまでになっている。来年には紀伊半島周辺で被害報告が出てくるだろう。また、かつて日本のマグロ供給基地であった県内の遠洋マグロ漁船は現在わずかに二隻ほどしかなく、これらが近年の燃油高騰によって廃業を検討し始めている。沿岸漁業でも漁船漁業なら燃油を使わずにいられない。先日ある漁協で聞いたところ、三ヶ月で10万円ほどの儲けしかなかった、というところも出ている。これでは生活保護をうけながら漁に出るということになってしまう。
大変だ、大変だ、というだけでは政治は動かない。役所は建前を前面に打ち立てて、できませんを連発する。まさか「同情するなら金をくれ」という漁業者の言うとおりにすることはないにしても何とか方策はないものか。燃油高騰のための会議を何度開いてもラチがあかない。水産議員はなにをしているのかという同僚国会議員の声声声。部会長たる私にとっては神経質にならざるを得ない日々であった。
そんな時冒頭のような「事件」がおこったのである。
ある日、一刻の猶予もならぬから、不完全ではあるが、"たたき台"の積もりで燃油高騰対策を会議に図ることにした。唐突に出てきた案に驚いた役所がまた「できません攻撃」で攻めてきたのである。○○さん、理屈はすばらしい。そのとおり、ではどうやって漁業者を救うんだ?構造改革なんて悠長なことをいっていると漁業者はいなくなるよ。日本の漁業がなくなったら外国の船が世界の海を席巻する。漁船の造船技術だってだんだんと後退が指摘されている。批判するのはかってだけど、別の方策があるのか?いってみろ!時は急を要するんでぃ!
気がついたら周りはしんと静まり返ってこちらを見ている。目の前にはやや青ざめた顔で水産庁の職員がこちらをうかがっていた。どこからが現実の声だったかさだかではないが、最後の怒鳴り声だけはみなの耳にはいってしまったようである。後悔しても遅い。「部会長!良くぞいってくれた!」、なんて声も上がる雰囲気のなか、補正予算案提出を既定路線にしてしまったのである。
ただ、断っておくが、ものの弾みでできたような予算ではない。卑しくも国民の大切な税金を使わせていただく補正措置である。(18年度概算要求にも反映されているが)その後も水産庁のかたがたとみっちりと「お勉強」させていただきしっかりとしたものに仕上がった。
その後、予算の折衝には水産庁をはじめ多くの同僚先輩議員の先生方の一方ならぬお世話になった。水産部会長職を離れることになったこともあり、この補正措置を通じて漁業関係の皆さんが少しでもげんきになられることを心のそこから期待してやまない。


2005/12/27 和歌山新報「がんばってます」掲載






「おめでとうございます。」いきなり見ず知らずに人にホテルのロビーでそう声をかけられて戸惑わない人はいないだろう。ご本人は私の連れ合いが先の総選挙で逆境の中、当選させていただいたことを言ってくれているらしい。
「大変な選挙でしたでしょう」などというやり取りが続いた後、いつものように憂鬱な気分になる。わざわざ話しかけてくださるぐらいだから、私には好意的であることがわかるだけに、そんな気持ちになることが大変申し訳ないとは思いながら。
確かに連れ合いの衆議院議員が、総選挙で5度目の当選をさせていただいたといえば、誰もがおめでとうとなんのいやみもなく言ってくれるのが自然である。しかし、この人もあの人も本当のことを知らされていないのだ。また、そんなことを聞く耳を持つ人かどうかがわからないまま気の向くままに話を進めることもできない。そんな葛藤が私を憂鬱にさせるのである。したがってこの稿は聞く耳を持ってくれている人だけにスペシャルに配信するものとしたい。
私は今でも今回の選挙はルール破りの間違った選挙だと思っている。なぜなら、党本部が「党議拘束をかけた」つまり、自民党員であれば誰もが今回の郵政法案には賛成する義務があるぞ、反対したら選挙で公認も取り消すぞ、党籍も剥奪するぞ、とは党の総務会の31名の決定があってこそのはずであるが、その決定が怪しいからである。私は総務会決定が公正に行われたものであれば、今回の選挙、刺客、離党、などという一連の流れに全く異存はない。当時報道されたとおり、総務会の決定は之まで日本的、(というより自民党的というべきか)円満解決策として全会一致が原則であった。(しかも、之は党則などに定められたものではなく、「慣例的」におこなわれてきたというのだから、恐れ入るが。)
時代はダイナミックにかわらねばならない。もっともっと革命的な改革をすすめねばならない。そのようなときに各人の意見が全員一致でまとまるなどというのはありえない。町内会の意思決定でも最近では意見の対立があるくらいである。多種多様な価値観が先鋭的にぶつかり、それでもすすまねばならないとき、われわれは民主主義の手法として多数決をとるのである。だから今回、慣例を破って多数決でことを決したことは異存どころかむしろもろ手を挙げて賛成したいぐらいである。ただ、それではだれが反対したのか、誰が賛成したのか、誰が棄権したのか、本当に法案に対して正式に意思決定があったのか、皆さんはご存知だろうか。実は国会議員ですら誰も知らされていないのである。
党本部は今でも之を非公開にしたまま、議事録はおろか、反対と賛成の数すら公表していない。いくら問い合わせても、「慣例」で非公表なのだそうだ。私は"殺されても"主張したい。之は駄目です、と。賛成が多いか反対が多いかをあらそっているのではない。絶対に多数決で導いた議事録は公表しなければいけないと主張しているのである。多数決というルールをささえるのは、主張の隔たりがあってもお互いがその主張を尊重していこうというもので、之を無視する制度ではなく、したがって少なくともどんな少数意見がどのようなプロセスで決まったかはそれぞれの国会議員が後世に責任を持つべきだと思うのである。少数意見に正義がないかというとそうではない。いや、多数決で決めたことが完全無欠の結論だというほうが少ないのではないか。裁判などでも少数意見が必ず評決文に添えられるのもそうした趣旨で、導かれた結論は尊重するが、少数意見としてこんなことがあった、だから今後の運用にはこうした反対意見に十分に配慮するように、ということが過去の失敗に反省してできる社会の知恵なのである。しかも今回は国民の代表が何百人も集まって投票行動を決める重要な意思決定であり、その決定をもって議員としての資格を剥奪されたものもあったほどの重大な決定ではなかったか。
戦前の話を持ち出すまでもなく、私たち国会議員はいつも時代の証言台に立たされた被告人である。多数決はそういう厳しさを持つもののはずだ。
しかし、多くの国会議員はこの落とし穴に気づいていないか、知ってもしらぬふりをしてあやふやにしようとしている。もし、国を結果的に誤らしめる法案が提出されたとしても、これでは防ぎようがないではないか。
一日も早く、党則を改正し(もしくは公開を慣例化する)、多数決で決めた場合には議事録を公開すべきだ。
「大変でしたね」と話しかけられて答える「ええまあ」にはこんな意味をこめている。


2005/11/08 和歌山新報「がんばってます」掲載






夢を持って活力ある社会を!

昨年は選挙を通じて多くの方々に大変お世話になりました。また先の衆議院議員選挙では、妻・野田聖子議員が非常に多くのご理解ご支援をいただきました。ありがとうございました。応援していただいた皆様方に改めて感謝いたします。
また平素の政治活動にご指導ご協力をいただいておりますことに厚く御礼申し上げます。
 8月1日、私が参議院郵政特別委員会で質問に立った時、その時私は郵政改革の積極的な賛成論者であることを明らかにした上で、審議の中でも明確にされてこなかった郵政民営化法案の不明点、疑問点を質しました。
竹中平蔵郵政民営化担当大臣、谷垣禎一財務大臣にそれぞれ答弁をしていただきましたが、残念ながらそれは必ずしも納得できるものではありませんでした(財政再建、国債発行、国家プロジェクトとの関係等々)。
ですから私は、今後も郵政改革の行方をしっかり見守り、点検し、必要によっては改正案の検討を含め、発言・行動していくつもりでおります。
また現在私は、自民党において水産部会長を仰せつかっておりますが、近頃の水産業界は、漁獲量減に魚価安で、後継者探しもままならないほどの危機的状況にあります。燃油の高騰、漁業合併問題に加えて竹島や尖閣列島の問題を見てもわかるように国際的な漁業資源の管理再編は一刻の猶予もないものとなっています。
今日の水産業界はまさに大きな転換期にあると言っていいでしょう。
転換期にあるといえば、水産に限らず教育、外交、地方自治などもそうです。紙面の制約で詳述はできませんが、これらの改革に共通することだけを言えば"理念"です。 郵政改革でもわかるように、現代社会は各分野にそれぞれの利害関係者がおり、複雑に絡み合って"奇妙にバランスのとれている状態"であります。
改革をするにつけ、「改革派」は「抵抗勢力」を「総論賛成、各論反対はけしからん」と必ず批判するのですが、このような事情を理解すれば当たり前のことなのです。攻守変わってその人が利害関係を持つ分野になれば逆の立場になることをまったく理解されていません。「大きな政府より小さな政府だ」「官から民へ」といいながら「50人学級より30人学級」がいいと公務員である先生が増えることを礼賛している政治家は少なくありません。
私はだからこそ「理念」=「改革の先にあるものはなにか」「いかなる社会を作ろうというのか」が問われていると繰り返し主張してきたのです。私が郵政法案の審議において郵政改革の先にあるものにこだわったのもここにありました。
幸せとはなにか、という哲学からいかなる社会を作るべきかを帰結すると、私は一人ひとりが自らの夢を持ち、その実現のために自助努力をすることで活力ある社会を作ること。
一方でしっかりとしたセーフティネットがあり、敗者復活のある社会を作る。この"理念"こそが山積みするすべての改革の先にある目標であり、そこから個別の改革の程度、時期、優先順位が見えてくると考えます。
お気づきの通りここまでの改革はもはや「革命」です。「革命」には大きなビジョンのもとに(たとえ一部であっても)国民も合意が必要になってきます。サッチャーがした改革のように真の改革を志向するなら「ワンフレーズ」、「劇場」政治などもってのほかです。
これからは本格的「革命的改革」の時代に入ってきます。その時代に高らかに真の「改革」のろしを上げ、微力を尽くすことができるよう、今後とも研鑽を重ねていく覚悟です。
至らぬ私ですが、皆様の引き続きのご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

参議院議員  鶴保庸介




2005/09/27 和歌山新報「がんばってます」掲載






今テレビをつけると、政治の関心はホリエモン、JRの問題を除けば、郵政事業民営化か中国問題である。
郵政はともかく、中国問題はやはり。という感慨を禁じえない。今から4年前の総理所信表明演説に対する本会議代表質問で、中国の教育問題を取り上げたからである。なぜ日本の歴史教科書の問題が中国の批判の的になっているのに、日本政府は中国の教科書の問題を取り上げないのか、というのがその趣旨であった。日本の教育においては戦後史というのはほとんど取り上げられないが、中国の歴史教科書を見ると、日本の十倍はボリュームのある近代史教育がなされているのである。しかもその内容はほとんどが日本の侵略に対する防衛を強調した中国共産党のレジティマシーを強調するものばかりなのである。
本会議代表質問の性格上、ボリュームをさいての質問はできなかったが、若手政治家としての想いをこめたものであった。両国の関係を築くのは両国国民であり、お互いが相互の立場を理解できない極端な教育を受けているとしたら、果たして本当にこのままで両国のいう、「未来志向」の関係が築けるのであろうか。総理答弁(文部科学省答弁)は案の定というか、期待はずれのものであったが。
もちろん日本における中国の歴史に関する理解は誤解も多い。また、日本の主張がすべて正しいわけではないと疑ってみる謙虚さも必要であろう。
しかし、私たちの30代40代世代において、戦争というものはいい意味でも悪い意味でも遠い過去のものになりつつあるし、中国の同世代も同様の感慨を持っているのではないかと思うことが多かった経験を踏まえると、そろそろ本当の意味での「未来志向型」教育を目指すように日本の文部科学省をはじめとする政府が中国政府に対して働きかけをすることがいかに大切か。今のままでいると、現体制が崩壊することがない限り、あと2、3世代は今のままの日中関係に終始するのではないかと危惧するのである。
靖国神社、尖閣列島、東シナ海の油田開発など、立場の異なる問題点を解決していくのは容易ではない。また、歴史認識なるものに両国の一致点を見つけることは難しいであろう。現に韓国とのあいだで、歴史認識を共有するべく発足した両国の協議会には日本側の代表が「もう二度と委員にはなりたくない」という感想がもれてくるほど大変な作業である。また、教科書の問題はきわめて国家の主権的権利に属する問題であり、これにメスを入れることはやり方を間違えると内政干渉というきわめて重大な過ちを犯すことも重々覚悟しなければならない。
確かに、そうは言っても
しかし、日本が戦後教育のなかではっきりとした立場をとって子弟を教育してきた以上、その論拠ははっきりしているはずなのであり、(そうでなければ、政府は取り返しのつかない重大犯罪を犯してきたことになる)その論拠にもとづいて中国に対してはっきりとした主張をすべきなのは日本人なら誰しもが望むところではないか。
多くの日本人識者が言うように「対話」を続けることでやがて真の理解にいたるほど外交はあまくはない。外交は日本人の考える以上に技術的所作であり、国際的にそう考えて臨む国が多い以上、両国の間に基本的な信頼関係がなくてはおそらく両国の間に横たわる溝は埋まらない。それには幼いころから受けてきた教育がいかに重要な意味を持つかは容易に気がつくはずである。
ことあるごとに中国の政府関係者と熱を帯びた(というより一見喧嘩腰)議論をしている私をなだめるつもりか「だって共産党だもの。(そんなこともしらないの)、」と訳知り顔にいわれる先輩にいいたい。中国共産党がその正統性を証明すべく、便宜上反日教育をしている面も多い。それがわかっているなら便宜上の反論をなぜ日本はしないのか。日本人の多くはこれをあきらめに似た感情でやり過ごしてきた。どうせ日本は戦争を覚悟できない国なのだから、という厭世観が相手国のわが国に関する教育をやりたい放題にさせているとしたら、教育に限っては大きな問題であり、それだからこそ、諸外国はわが国の教育に大きな関心を寄せているのである。中国は圧倒的な歴史があるが、現代の中国共産党はそうした歴史遺産を抹殺して新たな国家を建設してきた。それが現代中国政権であり、センチメンタルな日本の中国観はまったくといっていいほど伝わっていない。

私たちの中国に対する「なぜ」のすべてはここに発しているのである。



2005/05/10 和歌山新報「がんばってます」掲載






「ハマの心意気」

「こりゃあすごい。」その光景を見て思わずため息を漏らしてしまった。
自民党水産部会長として、現場を見ずして水産は語れないとの思いから軽い気持ちで国会議員数人と三浦半島の先っぽにある三崎漁港視察に参加したときのことである。
ひらめが、ぶりが、はまちが、ベルトコンベヤにのって次々と自動的にさばかれていくのである。ぴちぴちと生きている魚をギロチンのような刃物を持った工作機が頭を切り、尾を切る。二枚に、三枚に、スイッチ一つでおろし方まで調節のきく機械があると思えば、自動的にブラシの回った機械でうろこを落とす。最後は真空パックの切り身が次々と氷詰めの容器に入れられてさあどうぞという仕組みだ。魚の加工処理場はたくさんあるがここまで自動かつ衛生管理の行き届いた施設は日本でもまだまだ少ないという。消費者がそれを求めているというがすこしやりすぎなんじゃない?
で、本論はここから。そう、その施設が問題なのである。結論から言おう。これは三重県漁連が神奈川県の三浦半島に立てた魚処理工場なのである。じゃじゃーん、と頭にどらがなった人はかなり水産をわかっている方(?)。
説明すると、@県漁連でここまでの施設を作る体力、と情報力のあるところはほとんどない。A三重県が消費地に近い神奈川県を選んで作っているB三崎漁港と言えば特定第三種漁港というたいそうな漁港で愛媛丸はここを出てハワイに事故にあったのである。
何をいいたいかお分かりであろう。なんで三重県なんだ!どうして和歌山はできないんだ!。結局うらみぶしなのである。
しかしこれは県内の皆さんも同じ思いを共有してもらわねばならない。海産物を見て三重と和歌山では大きくは変わらない。むしろ、加太や有田のように瀬戸の海の恵みが取れるという意味では三重よりわが方が有利とさえいえるのである。
私は従来、一次産品の成功の鍵は消費地(マーケット)の情報をいかに的確かつ早くキャッチし、それをフィードバックすることができるかにかかっていると主張してきた。高値で売れないものをたくさんつくった(とった)ところで儲けは少ない。どのタイミングでどのような形、品質のものがどういう層に受けるかという情報さえ誤らなければ食料というものは確実にそのような情報を持たない産地食料を駆逐するのである。そういう意味では東京という日本一の消費地の目と鼻の先にこのような加工場をつくった三重県漁連の戦略に拍手を送りたいと思うし、ここまで差があることを認識し、われわれは改革を急がねばならないと思うのである。
「漁業をめぐる状況は大変厳しいものがあります」と何回言葉にしてもそれで漁村の暮らしがよくなる、魅力ある漁村に変わるはずがない。要は戦略と行動である。
多くの県内漁業関係者に聞いてみると、いよいよ待ったなしの状況になってきたと思っている。あえて批判を覚悟で申し上げます。「それじゃあ、なぜ行動を起こさないのですか。」ここらで漁協の合併を進めませんか(漁協のコスト削減)。産地直販所をつくりませんか(流通改革)。消費地に和歌山産の何々というPRにとびだしませんか(ブランド化)。マリーナ事業だって有望です(現存資源の有効活用)。そしてこれらのことをばらばらにではなくやる気のある漁業者を集めて検討するのです。
「漁師」。先祖にその血がながれている私には、この言葉には男らしい冒険心がある、と信じています。みみっちい漁業権を争うだけの存在では決してない。
ハマの心意気、を見せるときはまさに今この難局にあるのだと肝に銘じて、私もお手伝いをさせていただきたい。がんばります、いやがんばってます。



2005/02/15 和歌山新報「がんばってます」掲載






「私は産みたい」とたからかに宣言してくれる某女性国会議員のおかげで、どこへ行っても同情やら激励をいただく。あまりの反響の大きさに、少子化の時代をまさに肌で感じられるし、私事にかかわることだから、とも言っていられなくなってきた。
1年間で生まれた子供の数も、ベビーブームの47―49年の270万人に比べると、この10年は半分以下になっている。このままだと、現在の1億2600万人が2050年には1億人に、2100年には6700万人に減るという。
古代ローマでは子を持たない独身女性は50歳を越えるやいかなる相続権も認められないなど、独身者と子を持たないものには経済的、社会的に不利な処施策が講じられたという。
また、規定圏外の年齢の者、の間での結婚、すなわち、老人と若い娘との結婚は奨励されなかったともいう。ローマ時代に生まれたくはなかったとはある壮年男性の弁。
冗談はさておき、現代に至っても、非嫡出子の権利を大幅に認めたフランスの民法も少子化対策の側面が多分にある。
歴史を省みる時、人口が減少して繁栄した国はない。加えて、ドイツやイタリアなどの少子化は民族の消滅を意味しないが、日本は違う。
いまや少子化対策は国を挙げて取り組まねばならない大問題なのである。
しかし、わが国では高齢者対策は50兆円もでているが、少子化対策はそれとわかる直接的なものはない。
また、児童手当は旧厚生省、育児休業手当ては旧労働省というように、縦割りでその事務の連携が取れていないとの指摘もなされてきた。そもそも児童手当自体が少子化対策に有効かというアンケートに3%がYESと答えたのみであることを考えると、延長保育や奨学金の整備、充実、住宅、土地負担の軽減などむしろ子育て費用を軽減する方向に向かわねばならないのに、他の省庁と連携してわが国の総合施策としていくことはまだまだ動き出したばかりである。
保育所の整備に目を向けても、待機児の65%は0〜2才までの低年齢児。緊急度がもっとも高い50人以上の低年齢児がいるのは、115市町村で全国の3、5%。主に大都市である。そうした地区でこそ,交付金が使われるべきなのに、交付金は全国の市町村にくまなく配分されている、という。
また、対象保育所は公立と社会福祉法人の認可法人のみ。株式会社が経営する認定外保育所は対象とならない。これでは本当にニーズに即した少子化政策か。
不妊治療を受けるための診療所は少し有名になると長蛇の列だし(それはもう恐ろしいくらい)、不妊に悩む夫婦(というより主に女性)のためのサイトは年々盛況(?)を博している。
本当にわが国の夫婦は子育てにお金がかかるとためらって子供を産まないだけなのか? 夫婦の理想の子供数は2・53人で、「3人以上」という人もアンケートなどでは多いように、産みたいと考え、努力している向きは決して少なくないはずである。10年前に3割だった25〜30才の女性の未婚率が今は5割。と考えると、先述した総合的な施策とともに、未婚問題にこそターゲットを絞るべきであろう。(子育て支援政策の)エンゼル・プラン(94年12月に策定)では間に合わない。結婚奨励の「キューピットプラン」である。
合コン奨励というのではない。これは子供を産んで不利な状態に置かれるならいっそ独身のまま仕事で生きますという方のために男女の社会的格差をどう埋めるかにかかわる大きな問題である。ただ、「結局は魅力的な男性が少ない」とあちこちからため息がきこえてきそうではありますが。


2004/12/21 和歌山新報「がんばってます」掲載






鯨を食べる会という集まりがある。商業捕鯨再開に向け、日本の鯨文化を広めようと全国の有名捕鯨地域から多くの有志が集まって不定期に国会周辺で催される試食会である。地元県内漁協の皆さんも多く上京してくださって、殺伐とした国会生活のなかでひそかに楽しみにしている。鯨肉をほおばりながらこのときばかりは大いに盛り上がる(といっても申し訳ないほどの会費しかとってくれないので、人目につかないように二きれ三きれをなんども口にしているのだが)が、繰り返しの国際会議ではあいも変わらず捕鯨禁止。最近はこうした催しも元気を失ってきた。
一方、鰯が減っているらしい。水産庁によると日本海に生息するマイワシについては禁猟寸前の状態にまで激減しているという。その原因はよくわかっていないが、お決まりの乱獲説から、環境要因で減ったとする説、鯨が増えて食べている(もっと鯨を食べる会を頻繁に開催してほしい!)という説などさまざまなことが言われている。大体約20年から40年までの周期でふえたり減ったりしているらしいが、近年の最盛期から比べると100分の1にまでなっているというから見過ごせない。幸いわが和歌山県の面する太平洋側にはマイワシの警告は出ていないが、他魚種でもほうっておけない問題が山積している。
和歌山県の特産と言えば、果物など農産物のほかに鮎を上げる人も多いだろう。案外知られていないが、鵜飼で有名な岐阜県に稚魚を「輸出」しているほどなのである。鮎も稚魚から育てるのには時間と手間がかかる。環境、とくにえさとなる藻がつく川床には左右されるため、渓流の石には心無い観光客が持って帰らないように一つ一つに番号を振っているところもあるそうだ。その手間暇を考えたら気の遠くなるような作業ではないかと感心したが、そうして苦労して作った川床も山があれ、ちょっとした雨水で「死の川」になることが多くなったという。
私たちに身近なコンビニのおにぎり。これに巻きついているのりがどこで作られているかを正確に把握している人は少ない。なぜなら農産物に原産地表示の義務はあるが、海産物、とくに調製品については原産地の表示の義務はないというのである。案の定、中国の日本向けのりの生産が増えている。かの国ではのりを食べる習慣は現在のところほとんどないというが、日本の企業がノウハウを持ち込んで日本のものと遜色ない生産をしているという。そういえば韓国のりを食べることはあっても日本ののりと少し違うよな。で、こののりが対中輸入制限見直しの中で大きな摩擦の種になっているのである。
国土交通省の政務官として多くの方々にご厄介になって二年。九月いっぱいでお役をとかれ、今度は自民党の水産部会長に就任することになった。まだまだ勉強途上であるが、少しの間でもさまざまな問題が入ってくる。後継者に悩む漁業が夢と目標に満ちたものに変わりうるよう全力でがんばりたい。観光に結びつけた漁業ややる気のある漁業者が生き生きと取り組める仕組みをどうつくるか。絶滅危惧種はどれか、漁業者はどういう暮らしを強いられているのかなど漁業の実情がもっと広く社会に流布されるような情報発信も重要であろう。
さあ、これからは水産もやるぞ。


和歌山新報原稿






プロ野球スト回避。電車で乗り合わせた人が広げるスポーツ新聞に大きく躍る見出しを見ながら、電鉄会社の窮状を思った。
そう、南海貴志川線のことである。
ご存知の通り、南海貴志川線は大正3年に和歌山軽便鉄道として発足して以来、和歌山市と貴志川町を結ぶ歴史ある「市民の足」であり続けた。その貴志川線が時のモータリゼーションの波を受けて経営危機に陥っているのである。
南海鉄道としても関西空港の予想外の低迷により多額の投資をして敷設した関西空港線の失敗など、会社としても無理もない部分もある。
また、在京の電鉄会社なら支線とはいえ廃止問題がこれほどの問題になっているところは無く、人口集中が、電鉄会社の経営を圧迫していると言わざるを得ない。
しかし、はいそうですかとここで物分かりのいい顔をするわけにはいかない。
貴志川町の発展はひとえに貴志川線にかかってきた側面がある。
沿線の交通センターや各種学校、団地がなぜあの立地に建設されたのか。これらの学校に通う生徒はどうなるのか。とくに交通センターに免許の停止を受けて車で行かざるを得ないというのも笑えない話である。
また、貴志川町のような人口増加地域においてローカル線の経営が成り立たなくなるからといって、廃止を容認するなら全国のローカル線全体の経営をみなおさなければならなくなる。
とくに問題なのは、貴志川線を廃止した場合代替輸送としてバス路線を設置しようにも道路の整備はそれに対応できるほど充実していない。マイカーで行こうにも朝晩の渋滞がひどくなることは目に見えているのである。
関西空港への路線が南海鉄道の経営を圧迫しているという指摘もあるが、新規の航空会社も羽田‐関西空港便に参入の意向を表明してくれたところである。関空も2007年度の2本目の滑走路完成に向け、これからよくなる。さまざまな国からの直行便が出入りすることになるいま、この山を乗り越えることがどれほどの意味を持つかは論じるまでもないだろう。
また、世界遺産効果で高野山へ行く観光客の増加は決して高野線を持つ南海にとっても少なくない効果をもたらすはずだ。
しかし現実は多くの方々に貴志川線の存続を要望されてきたにもかかわらず、利用客は年々減っている。国土交通省もどうすれば経営がうまくいくか、よその地域ではどんな事例があるか、補助金などの援助策は無いかなどを存続に向け全力で努力をしているが、誰が悪い、彼が悪いと言ってみても結果は同じ。乗客が減っていてはどうしょうもない。
このようなことから先日は、和歌山市、貴志川町の協力を得て貴志川線を守るシンポジウムが開かれた。急な呼びかけであったにもかかわらず、多くの方々に集まっていただき有意義な会合が開けたと自負している。これだけの方々が大いなる運動を起こし渦を巻き起こすことしか、ふるさと貴志川線が復活する道は無い。お座敷列車、自転車列車、イベント列車など様々な工夫を凝らしながら地元の協力を経て赤字路線が復活した例は無いわけではない。
また、一度廃止した線路が復活することはめったにあるものではない。
多くの熱意ある人々の努力と運動によって支えられてきた赤字ローカル線が運命の岐路を迎えている。「ご近所の馬鹿力」が今こそ必要であると痛感する次第である
当たり前のことを再びいおう。みんなで貴志川線に乗らないか。


2004/09/15 和歌山新報「がんばってます」掲載






「不法入国禁止」。紀南の海岸線を走るたびいつも目についていた看板がある。中国や朝鮮半島の不法入国があるため、なぜか日本語で大書している。日本語を解する人向けに不法入国を禁止しても始まらないのに、という議論はともかくとして、日本という国が四方を海で囲まれ、どこからでも上陸できるということをわれわれは肌で感じている。
先日、中国の活動家が尖閣列島に上陸したというニュースが流れた。七人の活動家は結局、上陸後逮捕され、二日後には入管法違反ということで本国に強制送還されることになるのであるが、ニュースが流れた翌日海上保安庁に抗議の目が向けられることになる。
上陸を阻止できなかったことがけしからん、というものである。しかし、もっとも長い海岸線を持つ県の出身として、また、海上保安庁を担当する国土交通省政務官としてこうした世論に対し、いくつかの点で反論したい。
確かに国土交通省の外局である海上保安庁は海の安全、秩序維持の役割を負って、不法入国阻止の役目を負っている。しかし、日本が四方を海に囲まれたとてつもない海上国家である以上、膨大な海岸線のどこからでも上陸は可能であり、これを阻止するにはそれなりの船の充実が必要なはずである。
しかし、保安庁の装備拡充は自衛隊と同種に論じられることが多く、犯罪増加を背景に警察が比較的簡単に増員されるのとは様子を事にしている。
今回の事件においても上陸を阻止するには尖閣列島を一隻の船で警備することに無理があったと強く主張したい。列島への上陸が国際的に注目されそれをなんとしても阻止したいと言うのであれば、島全体を守る防衛施設を作るか、よりたくさんの保安船を配備するかをしなければならないが、保安船は南方の海岸線全体を警備するにはあまりに貧弱なものしかないのである。多くの国民のご理解を促したい。
また、もうひとつは、本当に政府がこうした島嶼部の主権を主張する決意があるか、ということである。先述したように、防衛施設の建設の建設がなぜできないのか。保安船の重点配備がなぜできないのか。これらへの解答は国土交通省にはない。外交、あるいは官邸の意向だといわれており、高度な政治判断で舵取りをしているという。しかし、現実には中国からの活動家が本国を離れるには本国の政治的なバックアップがなければなしえない。
政治的許可なしに不法出国しても帰国後厳罰に処せられるので、水面下でなんらかの動きがあったに違いない、と中国の友人は断言する。
現に、逮捕後実にタイミングよく抗議のコメントを出し続けた中国政府の在りようについては日本政府としても看過してはならないはずである。
そして法の不備。尖閣列島は埼玉県内に住む日本人が現に所有していることをいったい何人の方がご存知だろうか。日本人が所有権を持つ、れっきとした日本の国土というなら、日本人がそれらの地域をおとずれることは自由なはずである。これは移動の自由という憲法上保障された重要な権利である。しかし、今回の事件で明らかになったのは日本人が列島に移動するのを保安庁が差し押さえた、その根拠は警備上の問題となる行為を排除するための軽犯罪法であるというのである。
憲法上の権利を軽犯罪法で制約する国など聞いたことがない。軽犯罪法と言えば、立小便をしてはならない、といった程度のものが規定されているのであって、不法侵入とか、公務執行妨害などという重いものではない。
建前上、日本人である以上は移動の自由があるけど、いかないでほしいということをにじませたきわめて日本的な解決であるが、先述したように相手国が政治的意図をもって上陸した可能性がある以上、国の特別管轄地域に指定するなどして国際的に明示されるきっちりとした法の整備を急ぐべきである。
靖国神社参拝の問題には多くの議論がある。しかしより現実的な利益を体現する領土の問題ではっきりとした主張ができない国に国際的な尊敬はありえないし、双方の妥協も引き出しえない。奇妙な看板を見るたび、笑ってばかりはいられないと思うこのごろである。


2004/04/20 和歌山新報掲載






昨年の暮れには南部までの高速道路が開通した。便利になったことはもちろんのことであるが、白浜までの商圏が大阪から兵庫、京都まで広がったこともこれからの和歌山の発展に大いに貢献すると思っている。
ただ私はこのような社会インフラはもっと効率的に利用できる余地があると考えており、 一昨年の政務官就任以来、省の内外で高速道路の料金の弾力的運用を主張し続けてきた。一見してほとんど走る車が無いような時間帯まで正規の料金を徴収する必要があるのか。
しかもその料金が安ければまだしも、海南=湯浅間などは日本一といわれる高料金なのである。
確かに、和歌山の高速道路はトンネルが多く、建設コストが割高であり、これが料金にはねかえっているという特殊事情は理解できる。
しかし、公立学校施設の夜間解放など、既存施設を利用して新規建設を節約しようとする世の中である。どうして道路だけ特別でありえようか。夜間や日中の一定の時間帯に通るとすいすい通るのに、一般道は渋滞しているというのでは高速道路が効率的に利用されているとは言いがたい。特に、高速道路のあり方の議論のなかで原則として無料通行の「新直轄国道」という考え方が取り入れられた。これは、「高速道路は国民財産であるから、国の予算と責任で従来の国道整備と同じように高速ネットワークを整備していこう、」というものである。とするならば、現状の高速道路の料金もそのものままに放置しておいてよいのか。作ってしまったところは今までどおり料金を取り続け、新しく作る新直轄国道は料金を取りませんでは納得されないばかりか、そのことをたてにとって新直轄国道の建設が後回しにされかねない。
ただ、かといって料金収入によって維持管理を行っている高速道路の全線をすべて無料にすることは現実的ではない。なぜならこれまでの高速道路網の整備計画は料金収入を前提に作られており、これがなくなると代替財源をどこに求めるかが大問題になるし、料金が障壁となって道路の通行キャパシティを越えないような適正通行量を維持している面もあるからである。したがって現在のところ料金徴収そのものを廃止せよとまでは主張しない。国の公共財産である高速道路を効率的に活用するためにも季節料金、時間料金を設定することを工夫せよと言っているのである。新幹線や飛行機だって、早割りや事前割引、などと弾力的な料金設定を導入しているではないか。そんなことから国土交通省は一昨年末に新たな制度を提案した。それは特定路線を実験的に料金を引き下げ、もしもそれによって赤字が出たら、その分を国と地方自治体が半分づつ負担しようというものである。地方提案型にしたのはその料金引き下げのやり方を自由に考えてくださいということを明確にしたかったからである。
当然料金を引き下げれば通行料が増えて収入が増えるので赤字が出るとは限らないが、引き下げの時間帯は自由に設定できるばかりか、ETC限定車だけに割り引きするなど引き下げる対象をどのようにするかも工夫できることで赤字の発生を最小限にできる。赤字を出すことがどうしても怖ければ、渋滞するような時間帯に、料金を引き上げることも可能である。対象の路線のどの自治体が負担の責任を持つかも自由である。
事実、いくつかの自治体からの提案があり、引き下げによって通行量が増え、赤字を生まずにすんだところもある。
然るに、現在の所、肝心のわが和歌山県からは何の提案も受けていない。
日本一の高い料金が設定されている路線を抱え、他府県からの交流人口を増やすことが和歌山の活性化につながるのはだれも異論が無いはずである。その意味でわが県には明確なインセンティブがある。先述したとおり、新直轄路線の導入により、高速道路は公共物としての性格がより強いものに成ったいま、県民市民による有効な利用を考えるべきである。地方提案型のスキームがある以上、具体的な統計や予測を明示され検討されることを強くお願いしたい。


2004/01/28 和歌山新報掲載






中国出張である。実はミャンマーへ行く途中にアモイにトランジットすることになり、数時間の間、市内を歩きまわることができた。
実はアモイは台湾の金門島と海を隔ててほんの数キロの距離にある。ご存知のように台湾と中国は体制の違いから今も大変な(少なくとも日本から見る限り)対立がある。現に台湾を望むアモイの海岸線沿いには金門島に向けて統一中国なるプロパガンダ看板がでかでかと掲げられ、両国の緊張感を思い知らされる。しかし、ひとたびアモイ市内に眼を向けると、そこには台湾資本が堂々と根を張っているのである。ホテル、コーヒーショップ、レストラン、おみやげ物屋に衣料品店。台湾人の経営者がいくつものチェーン店で「中国人」を雇っている。アテンドしてくれた現地スタッフに違和感は無いかと尋ねると、どうしてそんなことをたずねるのかとこっちが逆に驚きの目で見られたのには参った。水ももらさぬ中台対立はうそか。
現に私は台湾の陳水篇総統の就任式に出席しただけで、中国大使館にその事実を知られていたぐらいであったから、なおさらそう思った。そのとき、あることを思い出した。
広東省にある南海市というところへ大仏の開眼式に出席したときのことだ。共産主義とは宗教否定からはじまった・・・マルクスレーニン主義とは・・。あれ?文化大革命だよな。なんで中国で大仏だ?ただそのときの私はしたたかだなあと感じるにすぎなかった。しかし今回はそんな表現では片付けてはならない何かを感じたのである。それはわが国が中央政府として付き合っている北京政府の意向とはまったく違う何かがこの国の中にある。もっというと、中国という国は存在しないのではないかということである。「省」というそれぞれの地域が存在するのみではないか。
実際、大連市をはじめとする山東省は日本との経済交流を進めるために政策として日本語を話せるスタッフを養成しているが、そのほかの地域では一般の店で一部老人を除いてまったくといっていいほど日本語が通じることはない。
また、華僑というが、そのネットワークは北京を中心としたそれではない。それぞれの在郷のネットワークであり、しかも錦を飾る故郷は必ずといっていいほど出身県である。
日本の政府もこうした実態を踏まえ、ビザの発給の可否を各省ごとに差別している。
日本での不法滞在者が多いからか、福建省出身者には日本訪問のためのビザの発行はできないことなど案外知られていない事実であろう。私はこうした実態を踏まえ、あることい思いいたった。それはわがふるさと和歌山県がすべての省に同じように付き合おうとしても限界があるということである。日本の県に当たる行政組織上のカウンターパートは中国の省であり、特定の省を大切にして徹底的にその省との関係を深くする政策をとるべきではないか。そうすればその省からの訪日の際は必ずといっていいほど和歌山を特別に考える。そういう風土が相互にとってメリットをもたらすことは言うまでも無いし、ひいては北京政府が流すステレオタイプの情報に一杞一憂することも無くなる。また、将来の日本のありようから言って、もっと独自に地方が(少なくとも近畿ブロックぐらいにまとまって行動する必要があろうと思うが)外交的アクションを起こしやすくなると考える。
ビジットジャパンキャンペーンとして国土交通省が訪日外国人数を倍増しようとしている今、和歌山が特色ある地域として中国に認知されるにはこれしかない。
とにもかくにも広い中国、ひとつの省だけで、日本一国と同じくらいの人口のあることをわすれてはならない。等質な中央集権でいる日本がいかに異端の存在であるかを改めて実感した数時間であった。


2003/12/03 和歌山新報「がんばってます」掲載






ネットによるコンピューターウイルスの被害を個人で受けるなんてもう少し先だろう。なんて思っていたと告白すると、三年前、大真面目にコンピューター2000年問題で総理官邸に泊まりこんだ政治家が何をやっているんだと笑われそうだ。しかし問題は現実に起きたのである。MSブラスター。はじめは何が起こったのか理解できなかった。何度電源を入れてもパソコンが強制終了する。「保存していないデータは失われます」とクールに表示してくれる。「ちくしょう。」コンピュータに向かって悪態をついていたのは私だけではなかったはずである。その後、新聞で猛威を振るうウイルスが同じ症状を生み出すものであることを知って、なにか始めて市民権を得たような、わけのわからん安心感がしてしまった。それが一般の怒りになるまでしばしの時間がかかったのはいつわらざる事実である。
いうまでもなく、昨今のIT関連企業の普及は著しく、知らず知らず社会を構成する重要な要素になってきている。しかし、問題はそれを使いこなす方の人間がその仕組みなりを理解していないことである。「ユーザーアカウントの設定」だの、「なんやら機能のカスタマイズ」だの、いつの間に日本はアメリカ言葉を話すようになったんだと悩んだ挙句に「致命的なエラー」。血の気が引くようなその表現にパソコンと数ヶ月離れて暮らしてみたりした諸兄も多いだろう。しかし、そうして世をすねてみたところで、時代は容赦ない。仕事にプライベートに、仕方なく電源を入れてみざるを得なくなる。
しかし、それではいつまでも根本的な疑問がぬぐえない。だいいち、ひとつ問題が起こるたびに「すねて」いたのでは使い物にならないのである。その昔、学校の技術家庭科という科目があったように思ったが、自動車の仕組みについて授業されたとき、なぜエアコンの仕組みは勉強しないのか、などとひねくれたことを考えたが、まさに、現在はパソコンの基本となる原理ぐらいはおしえてあげるべきではないか。
このままではチャップリンの「モダンタイムズ」よろしく人間が機械に使われる時代がやってくるのかもしれない。(古い、と言われる向きには最新映画「マトリックス」をごらんあれ)
IT はそれ自体で便利になるものではなく、それを使って何をするかが大切である。しかし、どんなことができてどんなことができないか、がわからない。先日はあるIT関連の方々と話すうち、新しい取り組みをしているといお話があった。経営者を集めてコンピューターを使ってどんなことができればより便利になるかというブレインストーミングをした上で、商品化できるものがあればそれをソフト会社が製品化して提案するというのである。かなりの技術力が要求される点で誰でもができるというわけではなさそうだが、提案された側の会社にしてみれば、より効率的に仕事ができるようになり、ソフトのコストが少々高くともビジネスとして十分やっていけるという。和歌山でもこうした取り組みをぜひともお願いしたいと考えている。とくに旧来の産業といわれる一次産業がIT を使うことで何ができるか、積極的に提案をしてみるのも一方だし、勉強会を作ってみてもいいのではないか。
住基ネットの導入にしても、いったい問題があるのかないのか、セキュリティーが万全かどうかは素人にはまったくわからない。おそらく、玄人であっても一部にしかわからないであろう。だとするならばできるだけ住民の納得がいく形で導入の可否が議論されるべきである。そしてその一般的平均的レベルがまだまだばらつきのある以上、導入に時間がかかっても仕方がないと考えている。
いずれにせよ、ウイルスのおかげでいろんなことを考えさせられる夏である。


2003/08/26 和歌山新報「がんばってます」掲載






先日、北朝鮮の不審船の引き上げ現場に行く機会がありました。
引き上げ直後鹿児島で展示されていたものを、東京へ移送しで改めて一般に公開しているものを見に行くことになったのです。生々しい弾痕が目に焼きつくとともに、こうした展示を通じてでしか「有事」を実感できないでいることのジレンマに愕然としたりもしました。
歴史が指摘するように、国家は経済で滅びはしません。古今東西国家が滅亡するのは外交においてでありました。つまり、経済的に立ち行かなくなって革命がおきても、私たちの国家は続く。国家とは自らの国を自立的に運営しようとする気概があれば存続するのです。そして、外交で滅びるとは、言い換えればその自らが持つ国家運営の気概を失ったとき、ともいえるでしょう。
簡単に言えば、自分たちの国は自分たちで守る、あるいは運営する、という愛国心、愛郷心が何より重要で、それがなくなれば自然、国家は滅んでいくのです。
確かに、国家などというものは時代時代に応じて枠組みが変わり、将来は世界がひとつになっていくのだから、小さな単位国家が滅んでいくことこそ世界の進歩だ、という向きもあるでしょう。しかし、その場合でもこの世に生を受け、生まれ育った土地に愛着を感じ、個人的に触れ合った人々への愛着を感じるのは人間の本性としてあり、之は変えようもありません。とするならば、国家という言語的、文化的、地理的一体性としての存在は未来も続くことになると思います。瞬時に何万キロをも移動できる手段が開発されない限りは。
私は今日の日本がこうした国家を構成する国民としての自立、気概を失っているように思えてなりません。それは何ごとをも国家単位で行動するむきだしの全体主義を意味しません。地域を愛するように国を大切に思い、お世話になった人々に感謝するように、育ててくれた国という存在に感謝する、という単にそれだけのことなのです。
なんだ、存外簡単なものじゃないかとお叱りを受けるかも知れません。
しかし、ではその国を運営する政治というものを「興味ない」と片付ける主権者の態度は何でしょうか。国家からの自由を叫びながら、何か問題が起こるたび、国がしてくれないとばかり嘆く面々はどう理解していいのでしょうか。国家の税金で養ってもらっているという感覚を失った政治家や役人の醜態。どれを取ってみても、「公共心」には程遠い。私は個人の自立に裏打ちされていない行き過ぎた個人主義はその個人そのものの安全、安心を奪うのではないか、と思うのです。
時あたかも、イラクへの派遣立法が参議院で審議されています。そして、地域を変えるであろう市町村の合併運動が県内各地で議論が沸き起こっている今。
一人一人がこうした国家、郷土への思いを問い直される時が来ているのではないか。
不審船でたたかった保安庁職員は今も精神的ショックを負っていると聞きます。こうした職員の努力が無駄にならない国づくりがもとめられている。そんなことを考えた夏の一日でした。


2003/07/15 和歌山新報「がんばってます」掲載






政務官室には役所の各局の皆さんが訪ねてきてくれる。そんなある日、慎重な面持ちで港湾局の面々が入ってきた。また法案の説明か。少々うんざりしながら聞いてみると、こんどの日曜日に東京のお台場でビーチバレーの大会をみに行こう、という。うひょひょ。へんな下心があったわけではないが、殺伐とした日常から、いらぬ想像を掻き立ててしまった。水着、砂浜、パラソル。しかし、ここで言いたいのはそんなことではない。港湾なのである。何?埋め立てをして海を汚し、無機質なクレーンが立ち並ぶあの港湾か。なぜ港湾がビーチとつながるのかとおもっていると、実はお台場でその港湾を所管する国土交通省が水辺に親しんでもらおうと企画したエベントがあるといういうのである。「マリンスポーツ21」。このイベントに役所の代表として参加しろ、ということであった。
国土交通省港湾局。日ごろから港湾整備の必要性を叫ばれながらも予算はこのところ縮減に告ぐ縮減である。言うまでもなく日本は四方を海に囲まれており、日本は国際貨物の量でいうならば、全体の99,8%を船で運んでいる。しかし、港湾の重要性をそれほど感じることは少ない。道路のように身近なインフラではないからであろう。
堤防建設やテトラポットを埋めるだけが仕事じゃあない。予算はなくとも国民が親しみやすい港湾を作ることこそ本当の仕事だと、今回の企画を思い立ったらしい。
主催は「日本ビーチスポーツ協会」というところで、ビーチバレー、ライフセービング、ビーチサッカーなどビーチスポーツの振興のために世界的に活躍する団体である。主催を任せてはいるものの、わが役所も事実上の運営に深くかかわらねばならない。
スーツを着て日ごろ役所に缶詰になっているオジサンたちが真っ黒に日焼けした若いアスリートにまじってビーチの整備や協賛企業の募集に回る姿は立派というよりこっけいにすら見えた。
当日もスーツ姿でやってくる始末。周辺はまだまだ水着だらけというわけには行かないが、そろそろ夏に向けて華やいだ雰囲気の中でのことである。野暮ここまできわまれりの感なきにしもあらずだが、港湾局の若手職員は大真面目である。
そのかいあって、二日間で述べ数万人の観客が来る一大イベントになった。
今後はこの大会を第一回と銘打って全国に広めていきたいと願っている。と、挨拶したら、早速でチャンスがめぐってきた。和歌山市でできるかも知れないということである。
今年は日本を代表するトップアスリートが中国で世界大会に出場する予定であった。
そこへご存知のサーズ。アスリートはそろって出場を断念。予定があいたのである。
もったいないというのは選手のみなさんに失礼だろう。しかしこのたびのサーズ禍で頼んでもなかなかあけてくれないアスリートの体が空いたのである。しかも八月のお盆に。このチャンスを逃す手はない。港湾局にも、協会の面々にもさっそくその辺の含みをしていおいた。できるなら皆さんの絶大なるバックアップをえて、和歌山で開催したい。そして、皆さんでお出かけいただいて、港湾局諸君の涙ぐましい努力にむくいてやってはもらえまいか。


2003/06/03 和歌山新報「がんばってます」掲載


▲ビーチスポーツインお台場 挨拶 ▲ビーチスポーツインお台場 始球式



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